芭蕉道 日本人のこころのふるさと

芭蕉道限定プログラム 名蕉地100選 芭蕉人 芭蕉道沿いの日帰り温泉 森村誠一、謎の奥の細道をたどる 魂身ルポ 現代によみがえる!松尾芭蕉の軌跡

平泉・一ノ関の旅

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元禄2年5月12日(陽暦1689年6月29日)、石巻から登米を経由して雨のなか一ノ関にたどりつき、宿をとった芭蕉。翌朝、いよいよ待望の平泉へと出かけます。そこは、芭蕉が心にかけてやまない源義経が最後を遂げた地であり、奥州藤原氏の栄華と滅亡の地でもあります。芭蕉がまっさきに訪れたのは「高館・義経堂(たかだち・ぎけいどう)」です。北上川を望むこの地は、かつて義経の屋敷があり、藤原泰衡の兵に襲撃され自害した場所。芭蕉は、今は草むらとなった戦場の跡を眺めながら、その悲劇を回顧し涙しました。

この土地で詠まれた句

夏草や兵どもが夢の跡芭蕉

卯の花に兼房見ゆる白毛かな曾良

五月雨の降り残してや光堂芭蕉

この土地の名蕉地

芭蕉が歩いた道のりに、森村誠一&おくのほそ道再生委員会が光を当て、現代、そして未来に残したい名勝地を‘名蕉地’と名付け、ベスト100景をセレクトしました。

No.35 高館・義経堂
No.37 中尊寺 No.38 毛越寺 No.39 配志和神社

芭蕉道認定プログラム

芭蕉道認定ガイド「芭蕉人(ばしょうびと)」が旅人をご案内。芭蕉の足跡やご当地グルメなど地域の魅力が詰まった体験プログラム。

ガイド紹介
竹村 繁さん
プロフィール

仙台博物館でのボランティアガイドを経験後、平成18年秋実施の当会の観光ボランティアガイド養成講座を終了後、平成19年1月正式に入会。
昭和22年生まれの62歳。

コメント

平成20年4月から、新しい組織編制に伴い、企画運営部長に就任。会の研修計画および広報等担当。
芭蕉の道の観光資源化に積極的に取組んでいます。

この地区のおすすめの芭蕉宿・体験

芭蕉道を訪れた旅人たちにおすすめの宿、周辺地域で楽しめる体験型プログラムをピックアップしました。より充実した芭蕉道の旅のプランニングにお役立てください。

平泉ホテル武蔵坊 宿

岩手県・平泉

平泉ホテル武蔵坊

矢びつ温泉 瑞泉閣 宿

岩手県・矢びつ温泉

矢びつ温泉 瑞泉閣

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森村誠一 謎の奥の細道をたどる 魂身

平泉・一ノ関 義経鎮魂の旅のクライマックス奥州文化の華・平泉と一関をめぐる 江戸を旅立ち44日目の元禄2年(1689)陰暦3月27日(陽暦5月16日)、芭蕉と曾良は快晴の空のもと一関から平泉へと向かいました。旅のの目的のひとつがかなう時が来たのです。

500年の時を乗り越え、義経の悲運に感応する

暮れゆく「毛越寺」の境内にて、予感が走った瞬間を撮影 暮れゆく「毛越寺」の境内にて、予感が走った瞬間を撮影

「おくのほそ道」の旅は、西行(さいぎょう)をはじめとした先達の歌枕(和歌に詠まれた地名や名所)を訪ねるとともに、悲運の武将・源義経とその郎党への鎮魂が大きな目的でした。 平泉は、平安時代(11世紀)後半から、約100年にわたり奥州藤原氏が支配する「みちのくの都」でした。初代・藤原清衡(きよひら)から基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)と続く3代に絢爛たる平泉文化が花開きます。源平戦での勲功著しい義経でしたが、兄頼朝の不興をかい追討される身に。弁慶らを伴い義経が目指したのは、かねてより親交の深かった秀衡のいる平泉。苦労の末、平泉にたどり着いた義経を秀衡は温かく出迎えました。しかし、その8カ月後に秀衡が死去。4代・泰衡(やすひら)は、頼朝からの圧力に耐えかね、義経居館を急襲。応戦むなしく義経は31歳の生涯を閉じました。なお、芭蕉が平泉を訪れてた元禄2年は、奇しくもその500年後にあたります。

藤原氏三代の夢の跡を行く
伽羅御所跡・柳之御所遺跡

「伽羅御所跡」にて。右手奥に見えるのが「金鶏山」。正対する場所に「束稲山」がある 「伽羅御所跡」にて。右手奥に見えるのが「金鶏山」。正対する場所に「束稲山」がある 「柳之御所資料館」にて。遺跡から出土した貴重な考古資料を展示している 「柳之御所資料館」にて。遺跡から出土した貴重な考古資料を展示している

2008年10月13日、平泉駅前で「古都ひらいずみガイドの会」事務局長・関宮さんと合流した森村誠一師匠一行は、駅舎を背に右手へ。旧国道を進むと右手に「伽羅御所入口(きゃらのごしょ)入口」の標識が。右へ曲がり進むと秀衡、泰衡の住まい跡と推定される「伽羅御所跡」です。この一帯は奥州藤原氏の都の跡。政庁の跡といわれる「柳之御所遺跡(やなぎのごしょいせき)」、寺院跡の「無量光院跡(むりょうこういんあと)」などが点在。とはいえ、往時をしのぶ建造物はなく、発掘された建物跡と遺物のみが事実を伝えます。刈り入れの済んだ田んぼや住宅が連なる小径を歩きながら、800年以上前の平泉へと思いを馳せました。

芭蕉の気持ちが胸に去来する景観
高館・義経堂

高館に立つ森村師匠。北上川と束稲山を一望。その胸中に迫ってくるものは? 高館に立つ森村師匠。北上川と束稲山を一望。その胸中に迫ってくるものは? 「夏草や……」の句と、「おくのほそ道」の高館の一文が刻まれた石碑 「夏草や……」の句と、「おくのほそ道」の高館の一文が刻まれた石碑 義経の木像がまつられた「義経堂」。仙台藩主4代伊達綱村が建立 義経の木像がまつられた「義経堂」。仙台藩主4代伊達綱村が建立

続いて訪れたのは「高館・義経堂(たかだち・ぎけいどう)」。平泉に着いた芭蕉が、いの一番に向かった場所です。高館は平泉へ逃れた義経の居館があったとされ、末期を迎えた場所。芭蕉が訪れる6年ほど前に義経堂が建立されています。入口から頂上へと通じる石段を上ると、ぱっと視界が広がりました。正面に束稲山(たばしねやま)、その手前に北上川が流れる雄大な眺め。それは、芭蕉が「おくのほそ道」に記した風景そのもの。眼前の景色へと心遊ばせるかのように、しばし佇む森村師匠。日本文学史上に残る傑作「夏草や兵どもが夢の跡」が生まれた瞬間に、時を越えて立ち会っていたかのようでした。

平安時代の輝きを今に伝える
中尊寺・金色堂

「金色堂新覆堂(こんじきどうしんおおいどう)」前。中に金色堂が保護されている 「金色堂新覆堂(こんじきどうしんおおいどう)」前。中に金色堂が保護されている 「中尊寺本堂」の門前。本堂では最澄が灯した「不滅の法灯」が燃え続けている 「中尊寺本堂」の門前。本堂では最澄が灯した「不滅の法灯」が燃え続けている 「金色堂」敷地内にある「五月雨の……」の芭蕉句碑 「金色堂」敷地内にある「五月雨の……」の芭蕉句碑

高館義経堂をあとに、曾良の句碑のある「卯の花清水(うのはなしみず)」を訪ねた森村師匠一行は、いよいよ「関山 中尊寺(かんざん ちゅうそんじ)」へ。慈覚大師円仁の開基と伝わる天台宗東北大本山の寺院で、藤原氏の初代清衡が戦乱で亡くなった人々の鎮魂、奥州安泰の願いが込め多くの大伽藍を造営しました。芭蕉同様、本堂の参拝を済ませた森村師匠は、「金色堂(こんじきどう)」へと向かいました。建武4年(1337)の火災により多くの堂塔が消失した中尊寺において、創建当初の姿を今に伝えるのが、天治元年(1124)に建立された金色堂です。燦然と輝く金色堂を見た感興を詠んだのが「五月雨の降り残してや光堂」の句。芭蕉の訪問時は快晴でしたが、推敲に推敲を重ねこの名句へと至りました。今は平泉観光のメインスポットであり、常に人々の目を集め、さざめきに包まれるなかに鎮座する金色堂。平安の様式を今に伝え、荘重な輝きを放つその姿は、さながらタイムマシンのようでした。

平安のかおりを色濃く残す庭園美
毛越寺

場内で最古の堂「常行堂」。享保17年(1732)に再建された 自然の景観を描き出す「浄土庭園」の大泉が池。平安の優美を伝える 自然の景観を描き出す「浄土庭園」の大泉が池。平安の優美を伝える 場内で最古の堂「常行堂」。享保17年(1732)に再建された 「夏草や……」の句が刻まれた2基の句碑。左は芭蕉の直筆から彫られたもの 「夏草や……」の句が刻まれた2基の句碑。左は芭蕉の直筆から彫られたもの

続いて向かったのは、中尊寺と並ぶ人気スポット「毛越寺(もうつうじ)」。二代基衡、三代秀衡により造営され、その規模は中尊寺をしのぐとも。度重なる災禍で建造物のほとんどが焼失しましたが、現在は大泉が池を中心とした浄土庭園が復元され、また寺塔の礎石遺構により往時をしのぶことができます。山門を入り進んだ右手には、芭蕉の直筆を彫った「夏草や……」の句碑や新渡戸稲造の英訳の句碑などが立っています。森村師匠一行が立ち寄ったのは午後遅くの時間。境内を回遊するうちにもみるみる傾きを増していく秋の日差しが、優美な浄土庭園に見事な陰影を与えます。ちなみに、芭蕉はこの寺に立ち寄っていません。金色堂を拝殿した芭蕉は、「金鶏山(きんけいざん)」等を回り一関へと戻りました。芭蕉の平泉滞在はわずか4時間ほど。これだけの実体験で世上に高い2句を残しました。今回の森村師匠の平泉訪問もまさに駆け足でしたが、滞在時間だけでははかれない濃密な印象を残してくれたことでしょう。

芭蕉の足跡が街中に点在する一関市街

江戸後期に一関藩家老職を務めた沼田家の住宅を復元 江戸後期に一関藩家老職を務めた沼田家の住宅を復元

岩手県の南端に位置する一関は、平安時代後期より交通の要衝として栄え、文字通り平泉への玄関口となった地。芭蕉が訪れた当時は、陸奥一関藩・初代藩主田村建顕(たむらたつあき)の領地でした。松島から石巻を経由した芭蕉は、登米(とめ)から馬の助けを借りながら一関に到着。翌日は一日かけて平泉を訪れ、その日も一関に宿をとりました。 現在、一ノ関駅西側にあたる市中心街は、落ち着いた佇まいを見せ、街のそこここに歴史的な建造物や石碑、郷土の偉人の像などが点在しています。

平泉行きのベースになった場所 
二夜庵跡

「二夜庵跡」の説明板。芭蕉最北の宿でもある 「二夜庵跡」の説明板。芭蕉最北の宿でもある 磐井橋のたもとにも、説明板と曾良の日記の石碑が 磐井橋のたもとにも、説明板と曾良の日記の石碑が

2008年10月12日の早朝、東京を発った森村誠一師匠が、一ノ関駅に降り立ったのはお昼前。まずは腹ごしらえと向かったのは、地元の世嬉の一(せきのいち)酒造が営む「蔵元レストラン せきのいち」。途中、建造後300年の歴史を有する見事な屋敷「旧沼田家武家住宅」に立ち寄り、武士の暮らしぶりへ思いはせます。大正時代の酒蔵を活用した「酒の民俗文化博物館」などが集まる一角にあるレストランでは、一関の食を代表する餅料理を味わいました。餅で気力体力を充実させた森村師匠、「いわいの里ガイドの会」の菅原さんと合流し、最初に向かったのは、「松尾芭蕉二夜庵跡」。芭蕉が2泊したといわれる金森邸の跡です。

快晴の青空のもと芭蕉の道行きを追う
旧奥州街道

磐井川の堤に立つ森村師匠。橋を渡れば旧奥州街道だ 磐井川の堤に立つ森村師匠。橋を渡れば旧奥州街道だ 旧奥州街道沿いに立つ、「芭蕉道標」前にて 旧奥州街道沿いに立つ、「芭蕉道標」前にて

「二夜庵跡」を後に、芭蕉が歩いたといわれる道筋を目指します。まず、磐井橋をわたり、北上川の支流・磐井川の西側へ。橋上からは広々とした河川敷、その上空に澄んだ秋の空が広がり、のどかな景観に森村氏の表情もほころびます。川を渡りきり右手へ行く県道が、平泉へむかう芭蕉の歩いた旧奥州街道にあたります。少し進むと木製の「芭蕉道標」が道沿いに。道標に記されているように、芭蕉がここを通ったのは、元禄2年5月13日(陽暦1689年6月29日)のこと。午前9時過ぎ出立した芭蕉は、快晴に恵まれました。季節・時刻に違いはあれど、森村師匠も同様の青空のもと、芭蕉の足跡に歩を重ねることができました。

森閑とした木立の間を延びる石段200段
配志和神社

200段の石段を登り「配志和神社」の社殿にたどり着く 200段の石段を登り「配志和神社」の社殿にたどり着く 社殿へと続く石段の前にて。まわりは鬱蒼とした木立だ 社殿へと続く石段の前にて。まわりは鬱蒼とした木立だ 殿前にある「梅が香りに のっと日の出る 山路かな」の句碑 社殿前にある「梅が香りに のっと日の出る 山路かな」の句碑 社務所近くにある「此の梅に 牛も初音と なきつべし」の句碑 社務所近くにある「此の梅に 牛も初音と なきつべし」の句碑

このまま旧奥州街道から県道、国道4号線を進めば平泉ですが、平泉訪問は翌日のお楽しみ、ということで、県道から左手へ進み、創建は1900年前と伝えられる「配志和神社(はいしわじんじゃ)」へ。鬱蒼としげる木々の間に石段が延びています。「社殿までは200段」とガイドの菅原さんに聞き、同行者からは少々嘆息が漏れましたが、森村師匠はここでもマイペース。確かな足取りで頂上を目指します。清浄な空気で肺を清めるように息継ぎし登りきると、正面に拝殿が!樹齢1000年といわれる2本の杉(夫婦杉)を左右に配した社は、簡素な素木造ながら風雪に磨かれ堂々たる姿。しばし社殿に見入る森村師匠でした。なお、芭蕉が配志和神社へ立ち寄った記録はありませんが、後世に芭蕉句碑が2基立てられ現存します。もし芭蕉がこの地に立ち寄ったなら、このような句を詠んだだろう……という想定のもと、芭蕉の偉業をしのんで立てられたもので、句自体は「おくのほそ道」の句ではありません。

取材・執筆・撮影/P.M.A.トライアングル
森村誠一
プロフィール
森村誠一(もりむら せいいち)

1933年埼玉県熊谷市生まれ。青山学院大学卒業後、10年間のホテルマン生活を経て作家活動に入る。『高層の死角』(第15回江戸川乱歩賞受賞)、『腐蝕の構造』(第26回日本推理作家協会賞受賞)、『人間の証明』(第3回角川小説賞受賞)『悪魔の飽食』『コールガール』など数多くのベストセラー作品を著し、本格派推理小説の世界で不動の地位を築く。作家活動40周年にあたる2003年には、第7回日本ミステリー文学大賞を受賞した。
近年は、新たな表現として“写真俳句”の創作、普及にも力を注いでいる。

公式HPアドレス http://www.morimuraseiichi.com/
森村誠一写真俳句館 http://www1.tategaki.jp/morimura/

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