名蕉地100選とは
松尾芭蕉が江戸・深川を後にして、日光から草深き奥州の地を目指し、松島、平泉を巡り、出羽三山、越後、金沢、そして美濃路に至る長大な道行き「おくのほそ道」を物したのは、今から300年前、絢爛たる元禄文化がまだ幕開けを告げたばかりの時代でした。
芭蕉が歩いた道のりには、荘厳な大自然の神秘はもとより、古人の叡智が詰まった創造物や、実直で豊かな暮らしぶりがあふれています。東北・北陸にとって観光資源の宝庫、まさに宝の山への道しるべとして相応しいこの名作に、森村誠一&おくのほそ道再生委員会が光を当て、現代、そして未来に残したい名勝地を‘名蕉地’と名付け、ベスト100景をセレクトしました。
No.42 封人の家
山形県最上町
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JR陸羽東線堺田駅より徒歩5分
梅雨の小雨に降られながら、夕刻に堺田にたどり着いた芭蕉。藩境の役人を兼ねた、堺田の庄屋の家に宿を請います。この家は堺田の旧有路家(きゅうありじけ)とされ、芭蕉が泊まったといわれる母屋が「封人の家(ほうじんのいえ)」として保存されています。翌日が大雨だったために芭蕉は2泊を余儀なくされました。芭蕉が泊まった家は、母屋の中で馬を飼っていました。これは馬の産地として知られた堺田ならではの家の構造です。その家での様子をユーモアこめて句にしました。
蚤虱馬の尿する枕もと
No.43 山刀伐峠
山形県尾花沢市
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JR陸羽東線赤倉温泉駅より車で20分
尾花沢を目指す芭蕉に最後の難所が待ちかまえていました。昼なお暗いといわれるほど木々の繁茂した道をゆく「山刀伐峠(なたぎりとうげ)」越えです。たくましい若者に案内人を頼み、笹を踏み分け、岩につまづきつつ、冷や汗を流しながら、なんとか峠を越えました。若者から、この道は山賊が出ることも珍しくなく、今日は何も何事もなくて幸いだった、と言われ胸をなで下ろします。
蚕飼ひする人は古代の姿かな(曾良)
No.44 芭蕉・清風歴史資料館
山形県尾花沢市
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JR奥羽本線・山形新幹線大石田駅より車で10分
あえて山刀伐峠の難所を越えて尾花沢へと向かった芭蕉。そこで待ち受けていたのは、江戸で付き合いのあった俳人で、尾花沢の商人である鈴木清風です。鈴木家はこの地方特産の紅花を商い、大名への貸付をするほどの豪商でした。清風宅は現存しませんが、その跡地に隣接して「芭蕉・清風歴史資料館」があります。古い商家を移築した建物は、清風宅に較べれば小ぶりのようですが、蔵や広い土間などが、芭蕉が訪れた当時の尾花沢の商家の雰囲気を伝えます。
涼しさをわが宿にしてねまるなり
No.45 養泉寺
山形県尾花沢市
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JR奥羽本線・山形新幹線大石田駅より車で10分
尾花沢に到着した日は、清風宅に宿泊。翌日、清風のはからいで「養泉寺(ようせんじ)」へと移ります。以後、多忙な清風に代わり彼の親友・村川素英が接待役を務め、尾花沢在住の俳人たちと交流。都合10泊の長きにわたり、尾花沢に滞在しました。養泉寺は、門前を羽州街道が通る高台に位置し、坂下には田園が広がり、遠方には鳥海山や月山が見えます。最上川を渡ってきた涼やかな風が境内を吹き抜けます。
這ひ出でよ飼屋が下の蟾の声
No.46 銀山温泉
山形県尾花沢市
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JR奥羽本線・山形新幹線大石田駅より車で40分
尾花沢から14kmほどの山あいにある「銀山温泉」。名前のとおり江戸初期に銀山として栄えた土地ですが、芭蕉が旅をした元禄2年(1689)に閉山。以後は温泉だけが残りました。芭蕉もこの温泉の存在は知っており、尾花沢での句会では、銀山温泉にある山神神社を詠み込んでいます。しかし、温泉を訪れた記録はありません。現在の銀山温泉は、大正期の大洪水のあとに再建された和洋折衷様式の旅館がそのまま残っています。川の両岸に並ぶ十数軒の旅館のたたずまいは、まさに大正ロマンの香りが漂います。
眉掃きを俤にして紅粉の花
No.47 立石寺
山形県山形市
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JR仙山線山寺駅より徒歩15分
尾花沢を出立した芭蕉は、鈴木清風のすすめに従い「立石寺(りっしゃくじ)」を訪ねます。羽州街道を南下し、天童から立石寺への参詣道である山寺街道を進み、午後には到着。宿坊へ荷物を預けるとさっそく参拝へ。石段をのぼり山上の本堂へたどりつくと、そこはひっそりと静まりかえり、ただ蝉の声だけがあたりにこだましていました。山岳仏教の古刹であることから山寺とも称される「立石寺」は、山門から山上の奥の院まで階段をのぼること30分。また五大堂からは眼下に門前町、その遥か先に蔵王連峰の絶景が望めます。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
No.48 最上川
山形県尾花沢市・大石田町・戸沢村・舟形町・庄内町・三川町・酒田市
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山形新幹線・奥羽本線新庄駅より車で30分(最上峡芭蕉ライン・戸澤藩船番所)
立石寺を発った芭蕉は、大石田へたどり着き最上川の姿を目の当たりにします。大石田で開いた句会では挨拶句として「五月雨をあつめて涼し最上川」と詠んでいます。大石田からは新庄に向かい、そこで2泊。その後、最上川を舟で下るため舟運の中継地点である「本合海」へ。梅雨明け前後で水量豊富な最上川を庄内藩の関所があった清川まで一気に下ります。この際の印象をも含めて「おくのほそ道」掲載の句ができあがります。
五月雨をあつめて早し最上川
No.49 出羽三山神社・南谷
山形県鶴岡市
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JR羽越本線鶴岡駅より庄内交通バス羽黒山行きで50分終点下車
最上川を清川で上陸した芭蕉は、熱心な参拝者で賑わったであろう道を羽黒山へと向かいます。江戸期には300を超える宿坊が立ち並んだ参道を行き、羽黒山山域に入ると別当代会覚阿闍梨(えがくあじゃり)に宿泊の許可をもらい、一の坂、二の坂をのぼり「南谷別院(みなみだにべついん)」に荷をおろしました。会覚阿闍梨より厚遇を得た芭蕉は、ここに6泊します。なお別院の建物は現存せず、庭園の跡と礎石らしい石のみが残っています。羽黒山の山頂に立つ「出羽三山神社(でわさんざんじんじゃ)」。その三神合祭殿(さんしんごうさいでん)は、月山、湯殿山が冬期に雪に閉ざされるため、通年の参拝ができるよう三神が合祀されています。
ありがたや雪をかをらす南谷
No.50 羽黒山・五重塔
山形県鶴岡市
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JR羽越本線鶴岡駅より庄内交通バス羽黒山行きで40分羽黒センター下車
羽黒山は、西の祓川(はらいがわ)と東の立谷沢川(たちやざわがわ)にはさまれた海抜414mのゆるやかな丘陵。推古天皇の時代から1400年以上もの歴史をほこり、古来、大堂・本社とも称せられ羽黒修験道の拠点として栄えてきました。もともと羽黒山の山域には神社、寺院とも多数ある神仏習合の地でした。それが明治初年の神仏分離令の際に、神道を奉じることとしたため、山内の多くの寺院が破壊されました。そんななか、地元の人たちが守り抜いたのが「五重塔」です。東北地方最古の五重塔で、その優美な姿は国宝に指定されています。
涼しさやほの三日月の羽黒山
No.51 月山・弥陀ヶ原
山形県庄内町
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JR羽越本線鶴岡駅より庄内交通バス月山八合目行きで2時間終点下車
南谷到着の翌々日、三山参りのため身を清め、首に注連(しめ)をかけた芭蕉は、夕刻、羽黒権現を参拝。翌日、いよいよ月山に登りました。早朝、馬で出発した芭蕉は7合目過ぎからは徒歩で山頂をめざし、「息たえ身こごえて」夕刻にようやくたどりつきます。月山神社に参拝、山頂付近の粗末な小屋で夜明けを待ちます。現在は夏から秋にかけ県道が開通し、8合目まで車でのぼるのが一般的。8合目レストハウスの裏手には、「弥陀ヶ原(みだがはら)」の湿原をめぐる木道があり、ミズバショウ、ニッコウキスゲをはじめ様々な植物を目にすることができます。
雲の峰いくつ崩れて月の山
No.52 湯殿山・仙人沢
山形県鶴岡市
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JR羽越本線鶴岡駅より庄内交通バス湯殿山行きで1時間30分終点下車
月山の山頂で朝を迎えた芭蕉は、「湯殿山神社(ゆどのさんじんじゃ)」へ向け下りはじめます。頂上からすぐの鍛冶小屋でひとやすみし、牛首、姥ヶ岳の中腹を下り装束場にたどりつくと、わらじを履き替え、装束を改め湯殿山参拝に臨みます。高度250mほどを下ると、いよいよ湯煙の立ち上る湯殿山神社です。芭蕉は、湯殿山山中のことは他言が禁じられていると、「筆をとどめて記さず」として、くわしいことは記していません。
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
No.53 湯殿山神社大鳥居
山形県鶴岡市
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JR羽越本線鶴岡駅より庄内交通バス湯殿山行きで1時間30分終点下車
出羽三山では、羽黒山が現世、月山が死の世界、湯殿山が再生を意味します。湯殿山のご神体は、温泉が湧き出ている赤褐色の大岩。参拝者は入口でお祓いを受け、素足になって参拝し、ご神体にのぼって御利益を直接肌で感じ取るものとされています。芭蕉は湯殿山参拝後、月山を経由して羽黒山へと戻りました。現在、湯殿山参籠所のかたわらにそびえ立つ大鳥居は高さ18m。平成5年に竣工したものです。
湯殿山銭踏む道の涙かな
No.54 鶴岡城址・致道館
山形県鶴岡市
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JR羽越本線鶴岡駅より徒歩25分
羽黒山をあとにした芭蕉は、鶴岡城下へ向かいます。旧知の庄内藩士長山重行宅に世話になり3泊します。酒井家14万石の城下町である鶴岡は、商都の酒田に対し政治の町。今も武家屋敷が落ち着いたたたずまいを残します。時代小説の巨匠である藤沢周平の作品に登場する架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」のモデルとしても近年知られます。鶴岡城跡は、公園となっており堀や石垣、老杉に城の名残を感じさせます。また、「致道館(ちどうかん))」は庄内藩の藩校として幾多の人材を輩出。現在は、東北で現存する唯一の藩校建造物として一般公開されています。
No.55 本間家旧本邸
山形県酒田市
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JR羽越本線酒田駅より徒歩20分
鶴岡から舟で酒田へ向かった芭蕉。俳諧が盛んなこの地で歓待を受け、句会を催すなど8泊しました。商都・酒田は町衆による自治が行われるなど商人同士の結束も強い地。その酒田を代表する豪商が本間家です。芭蕉が訪れたころは、初代が「新潟屋」を開業したばかりの時代でしたが、その後3代目で中興の祖といわれる本間光丘(みつおか)の時代に大きく発展。本間家は海岸の防砂林の植林、新田開発、貧民救済事業など、町の発展に私財を惜しみなく投じたことで知られます。「本間家旧本邸」は、光丘が藩のために建造、のちに本間家が拝領し、昭和20年まで住まいとしていた建物。武家屋敷と商家造りが一体となった全国的にも珍しい建築物です。
あつみ山や吹浦かけて夕涼み
No.56 日和山公園
山形県酒田市
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JR羽越本線酒田駅より徒歩30分
酒田に舟で着いた芭蕉は、現在の「日和山公園(ひよりやまこうえん)」下の船着き場で舟を降り、現在は芭蕉坂とも呼ばれる坂道をのぼり、金比羅神社を詣でました。日和山公園の名物といえば、日本海に沈む夕日。また、園内には日本最古級の木造六角灯台や方角石、往時活躍した千石船(1/2で再現)などがあり、港町の風情を今に伝えます。
暑き日を海に入れたり最上川
No.57 十六羅漢岩
山形県遊佐町
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JR羽越本線吹浦駅より徒歩15分
酒田から雨の中、象潟(きさかた)をめざした芭蕉。海岸沿いを進みますが、当時は現在のような松並木の防風林はなく、吹きさらしの砂浜を歩きました。やがて、吹浦(ふくら)で砂浜は途切れ、その先は鳥海山から流れ出た溶岩が固まった岩礁になります。風雨が激しくなり、吹浦に宿を求めました。芭蕉の時代から180年ほどのち、海難事故で亡くなった漁師の冥福を祈り、海上安全を祈願する「十六羅漢岩」が作られました。日本海まで流出し固まった鳥海山の溶岩に16体の羅漢像が刻まれています。
No.63 あつみ温泉
山形県鶴岡市
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JR羽越本線あつみ温泉駅よりすぐ
象潟への旅のあと、いったん酒田へ戻った芭蕉は、いよいよ次の目的地・金沢をめざします。羽州街道を進み、大山から温海(あつみ)へ。温海には温泉のある内陸側の湯温海と、海沿いの浜温海があり、芭蕉が泊まったのは浜温海。温海川の渓流沿いに宿が点在する「あつみ温泉」は江戸中期にも40軒以上の宿があったとのこと。翌日、曾良は湯温海を見物するために山側へ。芭蕉はそのまま海沿いを鼠ヶ関(ねずがせき)へ向かいました。なお、あつみ温泉の川沿いは桜の名所としても知られ、桜の開花時期に合わせ、河畔の桜250本に照明を点灯します。






