名蕉地100選とは
松尾芭蕉が江戸・深川を後にして、日光から草深き奥州の地を目指し、松島、平泉を巡り、出羽三山、越後、金沢、そして美濃路に至る長大な道行き「おくのほそ道」を物したのは、今から300年前、絢爛たる元禄文化がまだ幕開けを告げたばかりの時代でした。
芭蕉が歩いた道のりには、荘厳な大自然の神秘はもとより、古人の叡智が詰まった創造物や、実直で豊かな暮らしぶりがあふれています。東北・北陸にとって観光資源の宝庫、まさに宝の山への道しるべとして相応しいこの名作に、森村誠一&おくのほそ道再生委員会が光を当て、現代、そして未来に残したい名勝地を‘名蕉地’と名付け、ベスト100景をセレクトしました。
No.74 富山湾
富山県富山市ほか
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JR北陸本線各駅
越後と越中の境、今も新潟県と富山県を分ける境川を渡り、越中の地を踏んだ芭蕉。入善(にゅうぜん)から魚津までは「黒部四十八ヶ瀬」と呼ばれた黒部川の扇状地で、川が網の目のように流れています。立山連峰の地下水も湧出し、そこここに清水がありました。夏の暑い盛り、その冷たい水は芭蕉ののども潤したことでしょう。そして道行く芭蕉の右手には有磯海(ありそうみ)と呼ばれた現在の富山湾が広がります。越中の国守であった大伴家持の歌でも知られるように、有磯海は広く知られた歌枕のひとつです。
早稲の香や分け入る右は有磯海
No.75 宿場町滑川の町並み
富山県滑川市
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JR北陸本線・富山地方鉄道滑川駅より徒歩10分
魚津を経て滑川(なめりかわ)に着いた芭蕉はここで1泊。江戸期に北国街道の宿場町として栄えた滑川は、米の集散地として積み出しでもたいへんな賑わいを見せました。今も、旧街道に沿っては千本格子の町屋がそここに残っており、川沿いに面した旧家には舟をもやいだ名残があります。
No.76 放生津八幡宮
富山県射水市
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万葉線東新湊駅より徒歩10分
滑川を発った芭蕉は海沿いの道を進み放生津(ほうじょうづ)にたどりつきます。放生津は、海岸沿いの道の左手に潟湖が広がり、右手に富山湾が望めました。この周辺の富山湾が、大伴家持が万葉集で歌った奈呉の浦(なごのうら)です。現在、放生津潟は掘り下げられ富山新港となっており、昔日の面影はありません。旧街道を行くと現れるのが「放生津八幡宮」です。大伴家持が八幡宮の総本社である宇佐八幡宮から分霊して祀ったという古社で、海が近いためなのか、独特の開放感があります。
No.77 雨晴海岸
富山県高岡市
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JR氷見線雨晴駅より徒歩5分
芭蕉は当初、放生津からさらに海沿いの道を進み、歌枕の地である担籠(たこ)の藤波へ行くつもりでした。しかし、土地の人に道をたずねると、なかり距離があり、しかも漁師小屋がわずかあるのみで泊まるところもない、といわれ訪問をあきらめました。そして、進路を内陸へと向けます。富山湾全体をさすといわれる有磯海ですが、もともと岩礁の多い海という意味もあり、雨晴海岸(あまはらしかいがん)こそが有磯海だ、という説も。白砂に青松、遙か彼方に立山連峰をのぞむ景観は、まさに絶景です。
No.78 金屋町
富山県高岡市
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JR北陸本線高岡駅より徒歩15分
奈呉の浦を朝発った芭蕉は、その日の夕刻近く高岡に到着。高岡は、加賀藩の2代藩主前田利長が、隠居所として城を築いた地。わずか5年で廃城となりましたが、その堀や石垣などは今も残ります。利長が商工業の振興につとめたこともあり、高岡は今も伝統工芸が盛んです。千本格子とうだつがシンボルの町屋が残る「金屋町(かなやまち)」は、高岡鋳物の発祥地。石畳の両側に家並みが続く町には、今も鋳物店が数多く店を構えます。
No.79 瑞龍寺
富山県高岡市
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JR北陸本線高岡駅より徒歩10分
金屋町や豪商が軒を並べた山町筋など、素晴らしい町並みが残る高岡。前田家ゆかりの寺社も多く、なかでも前田利長の菩提寺として利常により寛文3年(1663)に建立された「瑞龍寺(ずいりゅうじ)」は、その象徴ともいえる寺院です。江戸初期の禅宗寺院建築として世評が高く、国宝に指定されています。芭蕉が訪れた時代には、すでに建立されていましたが、芭蕉がそこを訪れた記録は残念ながらないようです。
No.80 埴生護国八幡宮
富山県小矢部市
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JR北陸本線石動駅より車で5分
高岡を出発した芭蕉は、小矢部川河畔から舟で石動(いするぎ)まで移動し、倶利伽羅峠(くりからとうげ)をめざします。その際、峠の東麓にある「埴生護国八幡宮(はにゅうごこくはちまんぐう)」へ詣でています。寿永2年(1183)、源氏の大将である木曾義仲が倶利伽羅峠の合戦の勝利を祈願したことで知られます。芭蕉は、自分の墓を義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓の隣にするよう遺言したように、義仲びいきだったようです。
No.81 倶利伽羅峠
富山県小矢部市
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JR北陸本線石動駅より車で15分
鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」では、倶利伽羅峠(くりからとうげ)において、野営中の平家軍に対し、木曾義仲の軍勢が、角にたいまつをつけた数百頭の牛を先頭に奇襲をかけ勝利を収めたことが記されています。倶利伽羅峠は、越中と加賀の国境で、江戸時代には加賀藩が参勤交代の際に通るなど要所のひとつでした。「早稲の香や……」の句は、越中から越後に入るときに詠んだ句ともいわれ、倶利伽羅峠の最高点である国見山からは、加賀・越中・能登の3国が見渡せます。峠から金沢までは3里ほどを残すのみです。






