名蕉地100選とは
松尾芭蕉が江戸・深川を後にして、日光から草深き奥州の地を目指し、松島、平泉を巡り、出羽三山、越後、金沢、そして美濃路に至る長大な道行き「おくのほそ道」を物したのは、今から300年前、絢爛たる元禄文化がまだ幕開けを告げたばかりの時代でした。
芭蕉が歩いた道のりには、荘厳な大自然の神秘はもとより、古人の叡智が詰まった創造物や、実直で豊かな暮らしぶりがあふれています。東北・北陸にとって観光資源の宝庫、まさに宝の山への道しるべとして相応しいこの名作に、森村誠一&おくのほそ道再生委員会が光を当て、現代、そして未来に残したい名勝地を‘名蕉地’と名付け、ベスト100景をセレクトしました。
No.26 笠島・藤中将実方の墓・名取川
宮城県名取市
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JR東北本線名取駅より車で10分
白石を発った芭蕉は、いよいよ仙台をめざします。その途上に、笠島で藤中将実方(とうのちゅうじょうさねかた)の墓をたずねるつもりでしたが、五月雨でぬかるんだ道が歩きづらく、長旅の疲れもあったので、遠くから眺めるだけで素通りしています。ここでその状況を詠んだ句を記しています。藤中将実方は平安中期の歌人で、美貌と風流を兼ね備えた貴公子ですが、天皇の機嫌を損じたことから、陸奥の守に任命され、そのまま陸奥で客死しています。この旅先で死んだ歌人に、芭蕉は心をひかれたのです。
笠島はいづこ五月のぬかり道
No.27 竹駒神社・武隈の松
宮城県岩沼市
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JR東北本線岩沼駅より徒歩15分
「おくのほそ道」では、白石から笠島を経て岩沼に宿をとり、翌日に武隈の松を見たことになっています。実際は、白石から岩沼へ行き武隈の松を見たのち、笠島へ行くつもりが道を間違えて通り過ぎ、そのまま仙台に着いたようです。岩沼は、日本三大稲荷のひとつ「竹駒神社(たけこま)」の門前町。その神社の北側には、平安以来の歌枕で、能因・西行らも歌を詠んでいる「武隈の松(たけくまのまつ)」があります。樹齢1000年という松を前に、能因が詠んだ歌を思い出し、幽玄の世界にふけった境地を句に、また弟子への感謝へも返礼の句を詠んでいます。
武隈の松見せ申せ遅桜
桜より松は二木を三月越し
No.28 仙台
宮城県仙台市
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JR仙台駅下車
仙台へ入った芭蕉は、旅籠に4泊しました。この間、俳諧の心得のある画工、加右衛門と親しくし、彼の案内で仙台周辺の古歌に読まれた名所等を訪ね歩きました。萩の名所として名高い宮城野、歌枕の地である玉田・横野、伊達家の守護神である亀岡八幡宮、伊達政宗が再興した薬師堂、そして榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)などです。そして、仙台を立つ前の晩、宿に訪ねてきた加右衛門は、仙台名産のほし飯、紺色の布の緒をつけたわらじ二足を餞別に送ります。その心づかいへの感謝を込めた一句を詠みます。
あやめ草足に結ばん草鞋の緒
No.29 多賀城跡・多賀城碑(壺の碑)
宮城県多賀城市
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JR東北本線国府多賀城駅より徒歩10分
仙台を出発した芭蕉は、多賀城跡へと歌枕の「壺の碑」をたずねます。多賀城は奈良時代から10世紀なかばまで、みちのくの政治的・軍事的な要衝として栄えました。ここは、縄文以降の多様な遺跡、文化財が残る地。江戸期に「壺の碑」と呼ばれた巨大な石碑を目の前に、そこに刻まれた文字を読んだ芭蕉は、古人へ思いを馳せ、感涙しそうなほどの感動を受けます。なお、芭蕉が「壺の碑」と思った碑は、歌枕の「壺の碑」とは別物。現在では、多賀城改修の記念に立てられた「多賀城碑」であると実証されています。
No.30 末の松山
宮城県多賀城市
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JR東北本線国府多賀城駅より徒歩10分
「壺の碑」訪問後、芭蕉が歌枕を求めて足をのばしたのが「野田の玉川」。続いて向かったのが「末の松山」です。「末の松山」の由来は、その昔、多賀城から海を望むことができ、海へと至る最後(末)の松原だったことから。「おくのほそ道」の文中に登場する「沖の井」は、末の松山から数十メートルのところにあります。
No.31 鹽竈神社
宮城県塩竃市
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JR仙石線本塩釜駅より徒歩15分
末の松山から夕暮れ時に塩竈に着いた芭蕉。夕月の中、塩竈湾から漕ぎ帰る小舟や浜で魚を分ける人々の声に旅情を感じ、その夜は琵琶法師の奥浄瑠璃に聞き入ります。翌日の早朝、鹽竈神社(しおがまじんじゃ)へ参拝。そこは奥州の一宮で、伊達政宗が再建した荘厳な古社。社殿の前には「文治燈籠(ぶんじのとうろう)」と呼ばれる、古びた宝灯があります。芭蕉の時代より約500年前、父である藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の命を守り、源義経に仕え戦死した忠衡が、文治3年(1187)に寄進したもの。その人物の面影、悲劇的な運命に思いを馳せました。
No.32 松島
宮城県松島町
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JR東北本線二本松駅より車で10分
鹽竈神社の参拝後、芭蕉は昼頃船にて松島へと向かいます。「おくのほそ道」の冒頭にも記されているように、松島行きは、この旅の大きな目的のひとつでした。船から楽しんだ松島周辺の風光を、芭蕉は筆を尽くして描写しました。そして、松島の絶景に感動したあまり句が作れなかったとし、曾良が詠んだ句を載せています。
松島や鶴に身を借れほととぎす(曾良)
No.33 瑞巌寺
宮城県松島町
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JR仙石線松島海岸駅より徒歩5分
松島の船着き場から左手へ行けば「瑞巌寺(ずいがんじ)」総門に至る参道が延びています。海岸沿いの宿に荷を下ろした芭蕉はさっそく瑞巌寺を参拝しました。絢爛たる寺院を見学した芭蕉は、その後「雄島(おしま)」へ渡ります。そこは瑞巌寺の奥の院と呼ばれる霊場。修行に励んだ僧たちが岩窟に刻んだ卒塔婆や仏像が点在します。世俗を捨てた人の跡をたずねるのも芭蕉の楽しみのひとつ。西行はじめこの地を訪れた人々に思いをはせます。夜は宿の2階の、海側に開け放たれた窓から、月夜の絶景を眺めたということです。
No.34 石巻
宮城県石巻市
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JR仙石線石巻駅より徒歩20分(日和山公園)
次なる目的地、平泉をめざし松島を出立した芭蕉。ところが「おくのほそ道」では、ここで道に迷い石巻という港に着いてしまったと記しています。しかし、これはどうも、文章上の効果を高めるための工夫だったようです。江戸時代の石巻港は、東北でも有数の港でした。道に迷って思いがけず繁華な港にたどり着いた、という描写で印象を強めることをねらったようです。石巻で芭蕉は、港を見下ろす日和山(ひよりやま)に登り、港や周辺の様子を見物しました。






